2016年5月1日日曜日

熊本地震

2014年9月
俺は熊本、阿蘇にいた。
念願だった阿蘇へのツーリングが叶ったのだ。


そこで見た素晴らしい景色の数々。


走るうちに、
写真を撮るうちに、


バイカーとして、
写真家として、


自分が成長していくのを感じた。


ここに来てよかった。


自分を育ててくれた、ふるさとのひとつのような気がした。




過去記事参照
ASO→ http://tokunoshin.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html




2016年4月14日
それは、起きた。


14日の前震、16日の本震。


テレビに映る悲惨な被害の数々。


あの場所が、あの景色が、、、


「行かなきゃ」


咄嗟に、そう思った。


自分を成長させてくれたあの土地に恩返しを。
東日本大震災の時に何もできなかった悔しさもあった。




しかし、ご存知の方もいるだろうが、考えて考えて考えすぎる性格もあり、
支援に行くことに対して賛否両論もあり、自信もなかったのかもしれない。

"行かない"という結論になった。

やはり少し周りの目も気にしたのかもしれない。




せめてもの支援として義援金を出した。




17日、
SNSで被災地の状況を調べていたとき、
Facebookで京都の友達のようすけがある記事を投稿していたのを目にした。


「やらない善より、やる偽善」


俺は行く、誰か一緒に行かないか。
そんな問いかけに対して、


俺しかいない。そう思った。




迷いが、吹っ切れた。


メリットデメリット。そりゃ何にでもある。
でもメリットはかなりでかい。デメリットがあるからってメリットを捨てるなら、
考えて考えてデメリットをできるだけ減らしてメリットを取ろう。
迷惑をかけないよう最大限の配慮をし、自分にできることを最大限やろう。




すぐにようすけに連絡し、
各SNSで物資提供の協力を呼びかけた。

今回、個別に連絡して協力を求めることはせず、
不特定多数の人が見られるところで情報発信した。
無理して協力してもらうのは良くないし、自発的に協力してほしかったからだ。



日程は24日〜26日。
出発までの約1週間、できるかぎりの物資と情報を集めをやろう。




正直、集まるのか不安だった。


しかしその不安はすぐに払拭された。
翌日からの連絡の嵐。
「協力させてくれ」
「私にも何かできない?」
「がんばって!」


西は浜田、東は米子、1週間弱で予想をはるかに上回る量の物資が集まった。
俺は普段からこんな温かい人たちに囲まれていたのか。
嬉しくて仕方がなかった。


特にバイク仲間からの支援は厚かった。
やはり熊本、阿蘇周辺はバイク乗りにとって聖地。
行ったことがある仲間も数多く、他人事とは思えないのだろう。


「他人事とは思えない」


やはりそれが、俺を突き動かす最大の理由だろう。
「どうして人のためにそこまでできるの?」
「どうして自己犠牲を払えるの?」
そんなことを聞く人は少なくなかった。


人のためとか自己犠牲なんて思っていないからだ。


それともうひとつ、
写真家としてできることがあるのではないかと思った。


撮る写真にジャンルは決めてないが、
よく撮るもののひとつが ”自然の風景” だ。
それが俺のイメージという人も多いんじゃないだろうか。


どれだけ人間ががんばってつくったものでも、
自然の作り出すもののスケールと美しさには勝てないと思っている。


大好きな自然。
そんな自然の美しいところばかり撮ってていいのだろうか。


時に自然は牙を剥く。
それにもまた、人間は勝てないのだ。


写真家として、自然の美しさも、恐ろしさも、撮るべきではないか。










物資が集まって、行く準備は整った。


24日の朝、京都から2tトラックでようすけがやってきた。
実は俺もこいつと会うのは2回目。
出会いは過去記事を。


夢を集める旅→ http://tokunoshin.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html


2回目なんて感じることはない。
長い付き合いかのような感覚。




24日9時ごろ出発。




物資を積んだトラックはスピードも出ず、燃費も悪かった。


夕方、福岡県の久留米に到着。
この辺りでも、震災直後は水やカップ麺などがスーパーから消えたらしい。


今からだと熊本に入る頃には辺りは真っ暗で、動きまわるのは危険と判断し、この日は久留米で足りない物資を追加購入し、1泊することに決めた。




とTwitterに書いた直後、


1本の連絡が。


熊本市内に住む、ようすけの知人からだった。


今夜、うちに泊まらないか?半壊しているけど。




お言葉は有り難いが、
支援しに行っているのにお世話になるのは申し訳ないという気持ちと、
半壊という言葉に少し不安を感じた。




しかし、余震も収まってきてるし、行ってできることをしてあげたほうがいいのではないか。
そう思い熊本へ向かった。


このことは心配をかけると思い、Twitterへの投稿はしませんでした。
すみません、、。






熊本市内へ入ると急に道が悪くなった。


これが地震の爪痕か、、


気をつけながら住宅街へ入った。




その瞬間、




言葉を失った。








いきなり目の前に現れた光景。
テレビでは見た光景だった
そのときも衝撃を受けた。

しかし、
その光景がいま、自分の目の前にある。

その衝撃と恐怖に襲われた。
もしこの中に自分がいたら、、






そして泊めていただく城南町のお宅に到着。
家はしっかり立っているが、
ところどころ、壁や壁紙が剥がれ落ち、扉は外れていた。







今夜はここで泊めていただき、翌朝から行動しよう。

翌日の動きを確認し、
休もうと思ったそのとき、




衝撃が走った。


震度4の余震がきたのだ。




震度4以上の地震は、小学校低学年のときの鳥取西部地震で経験したが、
それ以来のことで記憶も薄い。


体が固まり、何もできなかった。怖かった。


完全にびびった俺達。


しかし、


「たいしたことないよ」


そのことばに驚いたが、
そうかもしれない。
大きい地震があれだけ続けばそうなるだろう。




その後は大きな揺れはなく、
朝まで眠りについた。




5時半に起床。
朝までに小さい揺れが6回あったらしい。


とりあえず、無事に朝を迎えられたことに一安心。
被災地の方はこんな恐怖と1週間以上戦っているのか。


朝になって、夜は避難所に行っている、泊めてくれた方のご両親が帰ってこられた。
「よく来てくれたねぇ」
「ありがとう」


自分たちが大変な目にあっているのに、気を使わせてしまっていることに
申し訳なさしかなかった。
自分が同じ目にあって、同じようなことができるだろうか。







この日は、物資を降ろして回り、時間が余ればボランティア活動をする予定。ようすけの別の知り合いの方が一緒に回ってくれるということで、大津で待ち合わせをした。


物資を配るのは、避難所に行けていない、車で生活している人たちや、指定されていない小さな避難所にいる人たちと決めていた。
事前に集めていたSNSの情報を頼りに向かう。
もちろん交通状況も、ネットと道の駅で情報を集めながら進む。
通れる道も路面に気をつけなければ危ない。









大津へ向かうには震度7の揺れが襲った益城町を通ることになった。



また、言葉を失う。


車を路上で停めることもできなかったため、
今回あまり写真を撮ることができなかった。
代わりに車で走りながら動画を撮った。





道路から見える家はほぼ全壊。
古い家と新しい家では崩れ方に差があるものの、新しい家でもよく見れば傾いていたり、一部崩れていたりと、
無傷な家を探す方が難しい。


同様に被害の大きかった西原村も通り、
大津に到着。


大津はバイクでも走った場所で、街並に見覚えがあった。




まずここから南阿蘇に向かう。
物資が足りていないところがあるという情報を得ていたからだ。
一番早いルートは阿蘇大橋を通るルートだが、
阿蘇大橋は土砂崩れにより崩落してしまった。


ミルクロードを通り、迂回する。
ラピュタの道も一部崩れたそう。


ラピュタの道こそ、大きな感動を与えてくれた場所。
立ち寄って現状を写真に収めたかったが、今回は物資を届けるのが最優先。



途中、阿蘇の山々が見えた。
感動で息を飲んだ光景に、今度は違う形で息を飲むことになるとは
思わなかった。
山肌が大きく崩れていた。








南阿蘇に入ると、見覚えのあるモニュメントが見えてきた。



「阿蘇ライダーズ・ベース」
阿蘇を走ったことあるライダーなら知らない人はいないだろう。
以前南阿蘇に来た時にお世話になった場所。
ここに避難している人もいると聞いていたので立ち寄ってみた。


オーナーはおられなかったが、
避難してきている人に話を聞かせていただいた。


その方は、家が全壊し、下敷きになったところを救出されたという。顔はアザだらけだった。


「命があってよかった。」


家はまた探さないといけないけれど、生きててよかった。
そうおっしゃっていた。


命より尊いものはない。当たり前だけど、改めてそう思った瞬間だった。




それから、南阿蘇の役場に向かった。
しかし、そこはものすごい数の自衛隊とマスコミ。
物資も十分にあるということで、俺らがいることは邪魔になると判断し、次の目的地へと向かった。




交通情報を確かめながら、大分県との県境にある
産山村へ。


ここは被害はそこまで大きい場所では無いが、割と新しい、物資が足りていないという情報を得ていた。




役場を覗くと、混み合っている様子もなかったので、
話を聞いてみた。
すると、避難勧告はすでに解除していて、物資も足りているとのこと。




他の地域でも徐々に避難勧告は解除され、
昼間は自宅に帰り、瓦礫の片付けなどをして、
夜だけ避難所に戻る人が多いという。




十分に物資が足りているところに無理に降ろして
手を煩わせるわけにもいかないので他を回ることにした。
しかし、どこもそうだが、せっかく遠くから来てくれたのだからと受け取ってくれようとする。
それに押し付けて帰る人もいるのだろうな。




そうなることは予想していたが、
善意の押し売りにはしたくない。
もしどこも余っていて邪魔になるなら、持って帰る覚悟もしていた。




しかし、新しい情報のみ集めていたつもりだが、
情報に振り回されている感は否めなかった。


その後は大分県に向かおうかと思っていたが、
情報があっても空振りになっている今、
情報が乏しいところへ行くのかどうか迷った。


ちょうどその時に、今度は南区で足りていないという情報が入った。地元の人からのタイムリーな情報なので、
距離はあるが行ってみることにした。






南区へ到着。物資が足りていないという場所に行ってみると、




空振りだった。




"足りていない"と言われて行ったら"足りている”。


車で生活している人がどこにいるか、
その情報はなかなかないので走りながら探していたのだが、
限られた時間の中ではそれも難しかった。


時間は夕方。暗くなれば動けない。

島根を出る前に調べていた情報と地元の人から聞いた情報で
合致するものがあった。
東区にあるD-BOYという美容室で避難所に行けてない人向けに物資を集め配っているという。
そこへ連絡を取ると物資受け付けているということだったので、
東区へ向かった。




到着するとボランティアの皆さんが仕分けや、ボランティアの受付をされていた。
ボランティアの皆さんにも手伝ってもらい、無事全ての物資を降ろすことができた。
ここに被災者の人が必要な物資を取りに来たり、車で小規模配送をしているそう。




喜んでくれたけど、これでいいのかなって気持ちもあった。
だが、思ったようには行かなかったけど、間違いなく必要な人に渡るだろう。
D-BOYのボランティアのみなさん、ありがとうございました。そして、よろしくお願いします。





近くのコンビニを覗くと陳列棚には何もなかった。




一概に物が足りている、足りていない。そう言えない状況なのだ。

実際、避難所でも足りているものもあれば、足りていないものもあるという状況だった。
物資を届けたのは震災から10日ほど経っていた頃。
震災からの経過時間によって、必要なものが変わってくるという
起きて間もない頃は、とにかく生き延びるために必要な物。これらは足りているところがほとんど。
それから時間が経つと、今度は普通の生活に戻るために必要な物。これらはまだ足りていない。


経過する時とそれにより変わっていく支援の仕方。
災害支援がいかに難しいかを実感した。


また、今回非常に難しさを感じたのが、
情報の取捨選択。
特に、SNSの使い方だ。

まず発信する側が気をつけなければならないのが、

◉その情報が、いつどこのものなのかをしっかり明記すること。
今回、我々は「○日○時現在」と書いてある情報を中心に収集した。
必ずしも物資が必要とされた時間と情報が発信された時間が同じではなかった。
また後々リツイートなど、拡散された時に古い情報が新しい情報とされてしまうために、
時間の明記は必ず必要。

◉発信した者がその情報に最後まで責任を持つこと。
何がいつどこで足りませんという情報はたくさんあるが、そこに物資が届いた時、
情報の更新をしなければ、まだ物資が足りていないことになる。情報が投げっぱなしだった。

また、情報を拡散する側も、
◉情報の鮮度に注意して拡散する。
古い情報を拡散したために、新しい情報が埋もれてしまったり、
古い情報を新しい情報と誤解される可能性がある。ただ、拡散すれば力になれるとは思わずに、慎重かつタイムリーに行うべき。

情報の受け取り側は、
◉それがいつどこの情報なのかをしっかり見極める。
先にあげたことだが、物資が必要とされた時間と情報が発信された時間が同じではない可能性を視野に入れ、より信憑性の高い情報を仕入れる。
断片的な情報も多いため、様々なメディアの情報と照らし合わせ、正確な情報にしていく必要がある。


これが全てではないが、気をつけるべきこと。
情報拡散力の優れたSNSだが、上記のように使い方を気をつけなければ
あまり役に立たないということが今回わかった。

しかし、今回、
問い合わせが混み合ってることもあり、行政には一切連絡を取らなかった。
そんな中、無事物資を届けることができたのはSNSの情報のおかげでもある。
災害時の使い方をユーザーがきちんと身につければ強いツールとなることは間違いない。






時間の経過ともに変わる支援のしかたとSNSの使い方。

この二つが今回学んだことの中で特に大事だと思った。







もとい、

その後は、今回協力してくれた地元の方達が、
交流会をしようと提案してくれて、一緒にご飯を食べた。
皆さん被災者で、家が崩れてしまった方もいるのに、
とても明るく良い人たちで、元気を与えに行っている俺らが逆に元気をもらってしまった。




この後、福岡まで走り一泊。
翌日の夕方、無事島根に帰還。その日の夜にようすけも無事京都へ到着。



帰ってきて、いつもの生活に戻り、
昨日までのことが現実ではないように感じた。

しかし、それも同じ現実。そのことは絶対忘れない。




今だけ支援をしても、
復興にはまだまだ時間がかかるわけで、
今後も支援を続けなければいけないと思った。

次、自分にできること、することは、

道路がもう少し整備できたら、バイク仲間を集めてツーリングに行くこと。
そこでお金をたくさん落とす。

まだまだできることはたくさんある。


そして何より、今回の経験を無駄にしないこと。

地元、島根でもいつ地震が起きるかなんてわからないんだから。





今回、平成28年熊本地震の被害に遭われたたくさんの方々には心よりお見舞い申し上げます。一日でも早い復興を願うとともに、自分ができることは可能な限りやっていこうと思います。




一緒に頑張りましょう。















※この記事の内容は、私個人の感想であり主観です。
事実と異なる点もあるかもしれません。災害支援とはとても難しく、慎重かつ迅速に行うべきであり、その場の状況によって異なります。



Tokunoshin







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